憎い憎い憎い憎たらしい

周りの人間みんな憎い

みんな知らないところで苦労してるだとか

そんなこと知ってるけど

みんな楽して馬鹿みたいに人生イージーモードな気がする

私ばっかりってわけじゃないけど

ただ単に私が楽になりたいだけで

ただ勝ち組になって、上から目線で見下ろしたいだけで

みんな苦しめばいい

人生幸せに生きてる奴らなんてくそくらえ

最近何もしてない

何もしないで寝る

早く寝て遅く起きる

やる気が出ない、やる気がそもそもない

やらなきゃいけない、やらないとあとで困るってのはわかってる、わかってるけど

家に帰った瞬間どうでもよくなる

楽しいことも辛いこともどうでもいいから寝たいになる

多分楽しいことも本当は楽しくないんだろうな

ただ生きて、生命活動が維持できればいいんだろうな

テレビ見てTwitter見て何も考えないで1日終わればそれでいいんだよな

あーもうめんどくさいな

早く呼ばれないかな

MP1消費の毎日

1日ずつしか生きられない

 

今この瞬間死んでも後悔はしないって思いながら生きてたら1日ずつしか生きられなくなってた。

とりあえず今日1日生きられたら頑張ったね、ハンコあげるね、明日はどうだか知らないけど。

いつ死ぬかわからないから、今楽しく楽に生きよう、明日生きてるかなんて今日の私が知ったこっちゃない。

そうやって明日、この先未来の自分への投資もせず我慢もせず、今日の日付に赤ペンでバツ印をつける。

先が見えない、いつまでこんな最終回の後の番外編やってりゃいいんだ。

早く打ち切りにしてくれ

 

思考の排出

話すにしても書くにしても言語化するのは嫌いだ。苦手だ。

 

頭でぐちゃぐちゃと考えていることを言葉に出すことで、さっきまであった膨大な思考は一つにまとめられてしまう。

もふもふでふわふわとした毛玉が実は一本の糸であったような驚きと。

甘く溶ける茶色のお菓子の名前を知った時のすっきり感と。

思い出の品を売った時に付けられた査定額へのがっかり感と。

色々こみ上げてくる。

私の中で渦巻いているごちゃごちゃと汚い色のした思考を吐き出すことなく抱きしめていたい。

わかっていることとできること

タイトルのまんまです

わかっていることとできるは違いますね

I 「know」doing itとI 「can」 do itですね

文法は知りません

 

 

頭の理解と体の動作が一致するとは限らないです

頭ではこうした方がいいのはわかってる、最終決定が出ている、やれ!やれ!と言っているけど体が動いてくれません

シンジがエネルギー切れのエヴァに対して動け動けよって言ってる感じがします

 

 

本の影響ですが、脳は思考をするところではなく体全体の思考の集計所らしいです、一説です

そう考えると体全体では思考した結論を肯定しているのに動かないというとんだボイコットをしているようです

 

 

しかし、動かない理由としていくつかの原因が考えられます

 

一つ目

動かなくても損はしないから

確かに最善の選択は理解出来ている

しかし動かないことで最善にはならないが最悪にもならないから

満点は取れなくても赤点にはならないから

 

二つ目

出した思考の答えが好きではないから、気に食わないから

嫌なことはやりたくないに決まっています

 

三つ目

動かない今の自分が好きだから

 

集約はできるけど言葉でわけるならこんな感じ

 

 

あーーーーーー動きたい

眠いからとりあえず寝ます

仏像が好き

仏像が好きです

 

 

初めて好きになったのは小学6年生の修学旅行。鹿にしか興味がなかった東大寺の博物館に行った時。

角を曲がったらいた、大きな千手観音に心を打たれました。あの感覚は初めてだった。

 

旅行から帰ったらまとめの修学旅行新聞を書かなきゃいけないから!ということでやたらメモをして見てまわっていたが、もっと仏像を見たい!メモなんてめんどくさい!と仏像を見てまわった。

 

オタクなので悪と戦う神様は好きだ。

如来菩薩明王天部とランク分けされているのが好きだ。

四天王とか八部衆とか数字の入った部隊が好きだ。

一人一人装飾の違う衣装が好きだ。

よく考えたら仏像は昔の人の創作作品だ。好きにならないはずがなかった。

 

それもあったけど、別の理由もありました。

調べてて、「好きなこと、趣味の基準に無心になれることを加えるのもいい」っていうのがありました。

なるほどなあと思いました。

 

私が仏像が好きな理由として、無心になれることがあるかもしれないです。

大きかったり技巧の凝らしたものであったりするとより無心になれます。

どんな表情をしてるか、服装は格好は、細かく見ていきたいのにふと気付くと無心で眺めてしまいます。

何も考えずに、ただ仏像と同じ空間にいる、そんな時が好きです。や

夢日記を書き始めて

日記をたまに書きます。毎日ではない

 

 

夢の内容を誰かに話したいけどすぐに誰かに会うわけじゃないって時はTwitterで発散してました。

だけど思い浮かぶ情景を言葉で示すのはめんどくさい、ストーリー性を持って話せない、そんなのが夢ですので、アナログで書くようになりましたのが経緯。

 

今まで日記を書いてたのに夢でのこともそこに書くようになりました。

日常日記プラス夢日記です。

 

 

よく夢日記は危ないとか言うので調べてみました。

まとめてみると「夢と現実の区別があやふやになる」ですよね。

夢日記をはじめてまだ日も浅いですが、言ってることは分かる気がします。

 

日記で書くためにここはどうだったかなときちんと思い出す必要があります。

ただ覚えてるとは違って、日記に書き出す、アウトプットとなるとあやふやな情報ではなく書き出せるだけの輪郭が必要となります。

そうするとただこんな夢を見たと「覚えてる」だけでなく、一度見た夢を日記に書くため思い出してペンで書いて「記録した」という感覚があります。

 

人はエピソード記憶で生きているので、夢日記を書くことで、過去のことに加え、夢の内容でさえもエピソード記憶として認識してしまえばそれは自身の記憶となってしまうのでしょうか。

夢日記を続けているとこれが繰り返され夢と現実の区別がつかなくなってしまうのではないかと思います。

 

 

だからといって私は夢日記やめようとは思いません。

別に夢と現実の区別がつかなくなるなんて怖いと思いませんので。

夢日記を始める経緯を書いたんですが、これに加えて私は明晰夢を見たいなと思って夢日記を始めました。

 

死んだ人に夢の中で会ったときにちゃんと話したいと思って、明晰夢を目指しています。

夢の中だと話したいこと話せないで終わってしまうことたくさんあるので。

 

夢日記を続けていると明晰夢を見られるようになるそうです。

なので私は夢日記を書いてます。

早く夢の中で姉とたくさんおしゃべりがしたいです。