思考の排出

話すにしても書くにしても言語化するのは嫌いだ。苦手だ。

 

頭でぐちゃぐちゃと考えていることを言葉に出すことで、さっきまであった膨大な思考は一つにまとめられてしまう。

もふもふでふわふわとした毛玉が実は一本の糸であったような驚きと。

甘く溶ける茶色のお菓子の名前を知った時のすっきり感と。

思い出の品を売った時に付けられた査定額へのがっかり感と。

色々こみ上げてくる。

私の中で渦巻いているごちゃごちゃと汚い色のした思考を吐き出すことなく抱きしめていたい。

わかっていることとできること

タイトルのまんまです

わかっていることとできるは違いますね

I 「know」doing itとI 「can」 do itですね

文法は知りません

 

 

頭の理解と体の動作が一致するとは限らないです

頭ではこうした方がいいのはわかってる、最終決定が出ている、やれ!やれ!と言っているけど体が動いてくれません

シンジがエネルギー切れのエヴァに対して動け動けよって言ってる感じがします

 

 

本の影響ですが、脳は思考をするところではなく体全体の思考の集計所らしいです、一説です

そう考えると体全体では思考した結論を肯定しているのに動かないというとんだボイコットをしているようです

 

 

しかし、動かない理由としていくつかの原因が考えられます

 

一つ目

動かなくても損はしないから

確かに最善の選択は理解出来ている

しかし動かないことで最善にはならないが最悪にもならないから

満点は取れなくても赤点にはならないから

 

二つ目

出した思考の答えが好きではないから、気に食わないから

嫌なことはやりたくないに決まっています

 

三つ目

動かない今の自分が好きだから

 

集約はできるけど言葉でわけるならこんな感じ

 

 

あーーーーーー動きたい

眠いからとりあえず寝ます

仏像が好き

仏像が好きです

 

 

初めて好きになったのは小学6年生の修学旅行。鹿にしか興味がなかった東大寺の博物館に行った時。

角を曲がったらいた、大きな千手観音に心を打たれました。あの感覚は初めてだった。

 

旅行から帰ったらまとめの修学旅行新聞を書かなきゃいけないから!ということでやたらメモをして見てまわっていたが、もっと仏像を見たい!メモなんてめんどくさい!と仏像を見てまわった。

 

オタクなので悪と戦う神様は好きだ。

如来菩薩明王天部とランク分けされているのが好きだ。

四天王とか八部衆とか数字の入った部隊が好きだ。

一人一人装飾の違う衣装が好きだ。

よく考えたら仏像は昔の人の創作作品だ。好きにならないはずがなかった。

 

それもあったけど、別の理由もありました。

調べてて、「好きなこと、趣味の基準に無心になれることを加えるのもいい」っていうのがありました。

なるほどなあと思いました。

 

私が仏像が好きな理由として、無心になれることがあるかもしれないです。

大きかったり技巧の凝らしたものであったりするとより無心になれます。

どんな表情をしてるか、服装は格好は、細かく見ていきたいのにふと気付くと無心で眺めてしまいます。

何も考えずに、ただ仏像と同じ空間にいる、そんな時が好きです。や

夢日記を書き始めて

日記をたまに書きます。毎日ではない

 

 

夢の内容を誰かに話したいけどすぐに誰かに会うわけじゃないって時はTwitterで発散してました。

だけど思い浮かぶ情景を言葉で示すのはめんどくさい、ストーリー性を持って話せない、そんなのが夢ですので、アナログで書くようになりましたのが経緯。

 

今まで日記を書いてたのに夢でのこともそこに書くようになりました。

日常日記プラス夢日記です。

 

 

よく夢日記は危ないとか言うので調べてみました。

まとめてみると「夢と現実の区別があやふやになる」ですよね。

夢日記をはじめてまだ日も浅いですが、言ってることは分かる気がします。

 

日記で書くためにここはどうだったかなときちんと思い出す必要があります。

ただ覚えてるとは違って、日記に書き出す、アウトプットとなるとあやふやな情報ではなく書き出せるだけの輪郭が必要となります。

そうするとただこんな夢を見たと「覚えてる」だけでなく、一度見た夢を日記に書くため思い出してペンで書いて「記録した」という感覚があります。

 

人はエピソード記憶で生きているので、夢日記を書くことで、過去のことに加え、夢の内容でさえもエピソード記憶として認識してしまえばそれは自身の記憶となってしまうのでしょうか。

夢日記を続けているとこれが繰り返され夢と現実の区別がつかなくなってしまうのではないかと思います。

 

 

だからといって私は夢日記やめようとは思いません。

別に夢と現実の区別がつかなくなるなんて怖いと思いませんので。

夢日記を始める経緯を書いたんですが、これに加えて私は明晰夢を見たいなと思って夢日記を始めました。

 

死んだ人に夢の中で会ったときにちゃんと話したいと思って、明晰夢を目指しています。

夢の中だと話したいこと話せないで終わってしまうことたくさんあるので。

 

夢日記を続けていると明晰夢を見られるようになるそうです。

なので私は夢日記を書いてます。

早く夢の中で姉とたくさんおしゃべりがしたいです。

隣に居てほしい本

前に書いた世界で一番尊敬する人っての姉なんですけどね。その姉が夏目漱石のこころ大好きだったんですよ。

 

こころっていうか先生が好きだったんですけど、単行本に加えマンガ版で描き手が変わる度に買ってたのでまあこころが好きでいいですよね。私は高校の授業で読んだんですけど、ま〜〜〜辛くて駄目でした。森鴎外舞姫も同様に。なんかこう、自分の中の汚い部分が外に出た結果あーあーあーと悪い方向に行ってしまうのが見てられなくて。一時期Twitterでもありましたよね、共感しすぎて辛くなりすぎちゃうの。あれです多分。

 

 

だから私は姉がこころすごい好きなのマジかよって感じでした。

でも思ってみると、本当に好きな作品って自分の本質を言い当てられてしまったり、自分の心臓目掛けてグザっと刺さって抜けなかったりさる作品じゃないですか?

 

私今現在一人暮らし初心者で、実家から何冊か本を持ってこうなったんですよ。私も姉も西尾維新オタで、私は物語シリーズ全巻揃えちゃってるんですけどそこから数冊ーって選んだ中の1冊が終物語上でした。

嫌なんですよね、老倉さん。自信過剰で独りよがりで周りを見下してそれ故に周りの意見を聞かず失敗してしまうキャラクター、嫌なんですよね。老倉さんなんて見てて(読んでて?)あーーーやめてやめて痛い痛い痛いってなって嫌なんですよね。

じゃあなんで嫌いな老倉さんばっかりでる終物語を選んだかっていいますと、老倉さんの言った台詞です。

 

「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようともしない奴」
「自力で沸騰したと思っている水が嫌い」
「自然に巡ってくると思っている季節が嫌い」
「自ら昇ってきたと思ってる太陽が嫌い」
「人は誰かに助けてもらわなきゃ幸せになれない。そんなこともわからない馬鹿が、嫌いで嫌いで死にそうだ」

 

こーーーーれなんですけど、ずっと心に刺さって抜けないんです。老倉さんの言うこの嫌いな奴ってまんま私なんですよね。自分の本質だけをえいやっと狙って言われた気がして心拍数が上がります。だから楽しい時にこそふと思い出します。私の隠してある本質なんて嫌いで見たくないのに、ふと読みたくなります。私はこんな奴なんだとふと思い知らされたくなります。お前はそんなお綺麗な人間じゃねーぞと言われたくなります。終物語上はそんな本です。

 

 

まあそれで結局何が言いたいかって、姉にとってのこころもそんな存在だったんじゃないかと思うわけです。人それぞれに何かシンパシーを感じてしまう本があって、多分それはその人の本質に何かしら近いことが書かれてる説明書なのかもしれないです。それを否定するってことは遠回しにその人の本質も否定してしまってるのではないかなーと思ってしまいました。大袈裟ですけどね。

 

 

 

余談ですけど、好きなキャラクターは自分に似てるとか言いますけど、嫌いなキャラクターも自分に似てますよね。なので老倉さんは私にそっくりさんです。

 

「なんでもないや」で、君のいない世界など夏休みのない8月のようってありますね。

 

学生からしたらありえないそんなのやだ無理って大騒ぎするんですけど、時間が経って大人になったらそれが当たり前になるんですよね。社会人になったら夏休みがないのは当たり前で、あの頃はよかったななんて思いを馳せたりするわけです。

 

今年の春に世界で一番尊敬する人を亡くしたんですけどね。今その人がいなくてこんな世界やだって駄々をこねていても、大人になったらいなくて当たり前の世界に慣れてしまうのではないかと思います。そう考えると早く大人になりたいですけど今はいつまででも駄々をこねていたいです。

目標地点

話していると脱線してしまうことが多々あります。

 

犬の話をしてたのにご近所さんの世間話になり小学校の思い出話になり彼氏はいるいないだの恋愛話になり、結局何を話していたんだっけ?となります。

高校の時日本史が得意だったんですけど、テスト前に歴史の流れを説明してみるということをしてみました。テスト範囲は平安時代だったので天皇が出てくると即位順、関連して藤原家との家系図、その人がやった政策、当時の文化、授業で聞いたコラムとどんどん話が逸れていき、歴史は進みませんでした。

 

結局で言うとすべての事象はどこかしらで全て繋がっているのだと思います。

溝の口って大井町線も通ってて田園都市線も通ってる。更に東急線の駅を出るとJR線の武蔵溝ノ口もある。溝の口という一つの点から渋谷にも立川にも繋がっている。なんだかこれに似てるなあと思います。

 

なので、このブログを書く時にはできるだけ目標地点を決めたいです。引っ張り出そうと思えばどこまでも私の脳髄がずりんずりんなので。頭の整理のために、書いているのだ。今日は溝の口のことだけを話す!そこから行ける渋谷はまた別の機会!触れない!としたいです。します。